【195日目】瞑想特集7:Vipassanaの感想

さて、長々と瞑想特集として、僕らが受けた10日間のVipassanaの経験を書いてきた。細かい話については、これまでの瞑想特集(1~6)を見てもらうとして、率直な感想を書いてみたいと思う。

(まだ見ていない人は「瞑想特集1:Vipassanaの歴史(仏教との関わり)」から)

手短に書くならば、僕はこのVipassana瞑想法について強く感銘を受け、この10日間の経験を通して自分が変わり始めるのを確かに感じた。そしてこれからもこの瞑想を続けたいと思う。

もう、感想としてはこれで十分伝わるだろうと思うのだけど、あまりにもつまらないので、蛇足ながら書き足していこう。

Vipassanaを受ける前も後も変わらず僕は無宗教である。どれかの宗教に属した覚えはないし、属したいという欲求もない(宗教に対する考え方は非常にセンシティブな話題で、安易に触れたくないのだけど、今日は少しだけ触れてみる)。

簡単に言えば、僕の中にはこういう2つの感覚がある。

  • 宗教に属し、何かの神に祈ることで幸せになったり、天国に行けるという感覚はどうしても理解できない。
  • 今まで出会った何かの宗教に対して信心深い人は、心が凄く強く優しい印象がある。

要するに信心深い人への(人間的な魅力という意味で)憧れはあるけれど、自分がそこにドップリ入れない、というモヤモヤした感覚があるのだ。

自分なりにこの感覚を追求して考えてみたことがある。信心深い人(と、毎回書いているのは、要するに何らかの宗教に属する人、と捉えてほしい)は自分の中の柱がしっかりしている。その柱というのが、いわゆるその宗教の教えであり、その教えというのは “徳” だ。平たく言えば「こうやって生きましょう」というお手本だ。キリスト教ならば聖書を読み「良い行い=徳」を学ぶ。人生に迷うとき、人はその教えに立ち返る。

こういう “柱” がある人に憧れがあった。

徳の高い人になりたい。――そう思うこと自体が不純だ、という意見は置いておくとして、やっぱり柱がほしい。Vipassanaについて学んだ後で真っ先に「ああ、柱ができた」と思った。

Vipassanaは宗教ではない。今となっては仏教と強く関係があるが、仏教徒になる必要はない。仏教と結びついたのは結果論だ(この話は連載の他の記事を参考)。神様を信じる必要はない。修行はひたすら内向きで、自分の心をきれいに保とうというだけだ。ざっくり書けば……

  • 心の汚れを掃除して
  • これからも汚れないようにしよう

部屋を掃除するのと同じだ。

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瞑想所の朝焼け

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帰っていく僧侶。僧侶も同じように修行に参加した。

瞑想をどう理解するかは人それぞれ。瞑想の種類によっては超常的な教えを含んでいたり、特定の神様を信じる必要があるらしい。もしVipassanaはそうであったなら、きっと僕の感想は「面白い体験をした」で終わっただろうと思う。

無宗教の人が多い日本にはかえって浸透しやすい瞑想法なんじゃないかな。

とにかく良い経験をさせてもらった。自分なりのペースで、習ったことを生活に取り入れたいと思う。

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