悲劇を前向きな力に! ベルリンの壁についての誤解と壁を知る4つの場所

“ベルリンの壁” のことをみなさんどれくらいご存じでしょうか? ここではできる限り分かりやすく解説しつつ、その実情を学べる4つのスポットを紹介したいと思います。


ベルリンの壁とは?

専門的な用語や人名などを省き、大きな流れだけを書きます。知っている人にとっては当たり前でしょうから飛ばしてください。

基礎知識

大きく3つのフェーズで理解するのが分かりやすいと思います。

ドイツ東西分割

第二次世界大戦でドイツが降伏したことで、ドイツはふたつに分割されました。

  • 西ドイツ ー アメリカ合衆国・イギリス・フランスが占領(資本主義)
  • 東ドイツ ー ソ連が占領(社会主義)

さてこの中で大混乱を生んだのがベルリンです。ベルリンの中に東西を分ける線があったわけではありません。ベルリンを囲むどの街も東ドイツの領地です。と、これならば問題はありませんでしたが、実はベルリンの西側だけは西ドイツの領地だったのです。

下の地図を見てください。白い場所が西ベルリン。つまり西ドイツの領地。それ以外は東ドイツの領地です。

結論を言えば、東ドイツの中に、ぽつんと離れ小島のように、西ドイツの領地があった。と、まぁ、そういうわけなのです。

そして極めて簡単に言えば東ドイツより西ドイツの方が住みよかった。だからみんな東ベルリンから、西ベルリンに人が流れたんですね。労働力、技術力、知識人、そういうものがこの西ドイツの離れ小島である西ベルリンに逃げていったわけです。

それでも分割当初は自由に行き来ができました。住むのは西で仕事は東(または逆)という人もいたくらいなので、相当に自由だったのでしょう。しかしソ連・東ドイツは人の流出を危惧し、東西の行き来を封鎖しようとした。

これが壁建設の動機です

壁の建設後

壁の建設は恐ろしく早かった。

1日にして仮の壁はできあがりました。それは有刺鉄線などを利用したもので、今私たちが知っているコンクリートの壁ではありません。想像してみてください。ある人突然、今までは自由に行き来できた場所に壁ができて、行き来が禁止されるのです。家族が東西に別れて暮らしていたり、恋人、友人とも生き別れます。また職場が反対側にある場合、そこに通うこともできなくなりました。

さて壁は数回にわたりアップデートされています。最初有刺鉄線だったのが、コンクリート塀になり、乗り越えられないようにいくつかの工夫を重ね、最終的には2重の壁ができました。つまり西ベルリンを囲むように2重の壁があったのです。

2重の壁の間は無人地帯とされ、そこに人がいれば撃たれます。犬が放され、地雷が設置され、とにかく壁を越えるのを困難にするあらゆる対策をうちました。だからひとつの壁を越えれば、向こう側にいけるというものではありませんでした。

壁の崩壊

壁の崩壊は1989年のことです。大昔に感じますか? 最近のことにように感じますか? ぼくは、そうですね……、やはり最近のことのように思えます。当時ぼくは7歳。知識も興味もなかったけれど、たしかに自我があった頃です。

2つの誤解

さてここまで読んでくれた人は、2つの誤解についてすでに触れています。が念のためもう1度。

  1. 誤:物理的に東西を分けるひとつの壁である ▶ 正:ベルリンの壁は概念としては東西をわけるものだが、物理的には西ベルリンを囲む輪っかである。
  2. 誤:輪っかで囲まれた西ベルリンを閉じ込めるものである ▶ 正:輪っかの外側である東ドイツから、輪っかの中である西ベルリンへ人が行くのを防ぐものである。

ベルリンの壁を知る4つの場所

ベルリンにはたくさんの “ベルリンの壁” 関連の観光施設があります。どこもきっと良いのでしょうが、ぼくらが行った場所を中心に、紹介していきましょう。

チェックポイントチャーリー

いくら壁があったとはいえ、壁を行き来する人はいたわけです。一応名目上は、正規の許可証があれば行き来することは可能でした。許可を得られるケースはいろいろありますが、そのひとつは “65歳を超えた人”。これは65歳を超えると年金が発生するので、東ドイツからすれば「さっさといなくなって欲しい人」だったわけですね。これ以外にも、いろいろ許可されるケースがあったそうですが、言うまでもなくそれは簡単に得られるものではありませんでした。

ともかくそう言った人らの出入り場所として3つのチェックポイントがありました。A,B,Cと名付けられたもののひとつがC=チャーリーと呼ばれる場所です。

今では記念として常時兵隊が立っていて、気軽に記念撮影に応じてくれます。今見るとなんてこともない道路の真ん中にある検問所ですが、ここを通ることができるか否かで人生が左右したと思うと、重要な場所だと言えるでしょう。

壁のパノラマ

ここは壁そのものを見ると言うよりも、壁を中心にした生活の様子を大きなパノラマで見せてくれる施設です。まぁ、ちょっとした施設で、興味なく見れば数分で終わってしまうのですが、よくよく見るとなかなかよくできた施設なのです。

さっそく中に入ってみましょう。中は2つの部屋に別れています。ひとつ目は写真展示室。壁の歴史が生々しい写真で紹介されています。

何気ない写真ですが、こちらは1981年のもので、この家族の後ろに見える花壇を超えて向こう側に行くと、射殺されてしまう危険な場所でした。

さてふたつ目の部屋に行きましょう。こちらは写真だと全体像が伝えにくいのですが、180度のパノラマの壁があり、それが立体的によく描かれているんです。下に並べた写真はどれも絵です。まるで本物のようですね。




チェックポイントチャーリー博物館

ここは簡単に言えば、壁の博物館です。

写真がないのですが、個人的に圧倒的な印象だったのは何とか不正に亡命しようとする人たちの苦労です。子どもを逃がすために、小さな旅行カバン——今で言う “機内持ち込み可能サイズ” のカバン——の中に子どもが折り畳まって隠れていた写真がありました。

また大きな機械の中に、人が隠れる小さなスペースを作り、機械を西側に運ぶふりをして、人を運ぶケースもあったようです。

リアルな恐怖がそこにはありました。

壁そのもの

そして1度は見なければならないのは壁そのものです。

上の写真は小さな残骸ですが、これ以外にも200mほど残っている場所があります。どちらにせよ、ぜひ見てください。本当にただの壁なのです。もし場所が違えば、例えばこれが大学を囲む壁であれば、あるいは空港を囲む壁であれば、だれも注意も払わない、ただの壁だったはずなのです。その壁に “人を分断する” という機能をもたせてしまった。それが不幸なのです。壁が不幸を生むのではなく、人が生んだのです。包丁は人を殺さない。人は人が殺すのです。

厚さ30cmもないでしょう。ただの壁です。この壁ひとつに分断されるなんて……。と見ていて悲しい気持ちになりました。

まとめ

知識として

  • ベルリンには壁があって
  • それで分断された人がいて、
  • それが不幸だった

ということは知っています。誰でも知っています。資料としてもたくさん出回っていますし、映画を通してイメージしている人もいるでしょう。ぼくが凄いと思うのは、それをベルリンという街が、これほどまでに全力で訴えようとしていることです。

ベルリンの壁とナチスのユダヤ人大量殺戮。こういった負の歴史を、ドイツという国が世界に向けて発信していることに感銘を受けました。例えば日本に「パールハーバーの奇襲に関する博物館」でも作るようなイメージでしょうか? それもひとつやふたつではなく、何個も何個も……。

悲劇というのは当然、起きるべきでなかった事件です。しかしひとつだけ価値があります。それは「もう同じ悲劇を起こさないぞ」という決意を生むことです。それだけが悲劇の価値なのです。この町は、ベルリンの壁という悲劇を前向きな力に変えようとしているように、ぼくは思います。

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