美しさに絶対はない コロンビアを代表するボテロの作品を通して美しさの軸をシフトさせよう
“もっともコロンビア人らしい芸術家”と呼ばれるフェルナンド・ボテロの美術館がコロンビアのボゴタにあります。彼の特徴的な作品は1度見ると忘れられません。ここはしっかり目に焼き付けて、素人ながらに彼の作品を解釈してみたいと思います。
ボテロ博物館へ
ボゴタの定番観光スポットがボテロ博物館です。入場料無料で、バックパッカーの宿泊の定番でもある旧市街の中にあることもあり、「ボゴタに着いたら、とりあえず行くところ」的な立ち位置にあります。
ぼくらも行ってみることにしました。
さて、中に入るとステキな絵がたくさん。ボテロの作品の前に、ピカソやダリの作品もあり、それはそれで魅力的!
で、いつボテロは出てくるんだ?? と思い始めるころに突然のバナナの絵。ぱっつんぱっつんと膨らんだ、豊満なバナナです。作者を見るとこれがボテロでした。
さて、ボテロはどういう絵を描く画家なのでしょうか?
ボテロの特徴は絵の評論家でなくてもすぐにわかります。つらつらと数枚見ていきましょう。
——分かりますね。
みんな太っちょなのです。最初に挙げたバナナが太いのも同じ理由。とにかく彼が描く絵はみんな太っちょ。人も物も太っちょなのです。「肉付きがいい」という言葉が頭をよぎりますが……。
これは「肉付き」がいいわけではなさそうです。だって骨ですもの……。
いわゆるひとりの人を描くことが多いのかと思えば、こういうハチャメチャな場面を描くこともあります。やっぱりみんな太めですね。
情け容赦ないな。と思うのがこれ。これ、アレですよね。キリスト……。
彫刻も作るようですが、やはり……。
美しさは相対的!
こうやって彼の絵を何枚も何枚も続けてみていると、段々太っていることが普通のことのように思えてきます。ぼくは絵の評論家ではないので、これをどう解釈すべきか、という偉そうな講釈はできませんが、自分なりに感じたのが「美しさって相対的だな」ということです。
ぼくはもともと「太りすぎは美しくない」という感覚の持ち主です(健康的な体型が理想だ、という意味)。だからボテロの絵を見たとき「太ってるな」ということをネガティブに捉えました。そもそも「太っている」という言葉自体「正常な体型」から比べて「太っている」ことを意味しているわけで、ぼくが思う「正常な体型」から逸脱していると感じたわけです(正常な体型……。それってなんでしょうかね?)。
ところが、繰り返しボテロの絵を見続けていると、段々それが「正常な体型」に見えてくるんですね。普通のことになっていく。太っている、としか思わなかった最初の頃に比べて、見慣れてきた頃にはそれぞれの人物の違いに目が行くようになり、段々太っていることが気にならなくなっていく。そして絵の中の美しさに気付き始めます……。アクセサリーの美しさ、服装の美しさ、そういうものもありますが、それ以上に “自信” ですね。絵の中の人物の自信の強さが美しい。バナナひとつとりあげても自信に溢れている。
世界を旅していて「女性の美しさ」は国によって異なることは理屈では分かっていました。だから美しさは相対的なものであり、絶対的じゃないということは分かっていたのです。だけど、繰り返しボテロの絵を見ていくことで、自分の感性を一時的にシフトし「正常な体型」という主観的な軸が変化していくような気がしました。
ボテロが言いたかったことはそういうことなのでしょうか? 彼の言葉を引用します。
芸術家は理由など知らずにある形にひきつけられる。理屈を付けて正当化するのは後からすることだ。
なるほどね。では、見ているこちらとしては好きに解釈させてもらいましょう。
芸術とはそういうものです。